「丁寧な暮らし」にあこがれて始めたものの、気づけばなんだか疲れている——
そんな経験、ありませんか?
朝は白湯から始まり、木のまな板で野菜を刻み、
お気に入りの器に季節のものを盛りつけて。
雑誌やSNSで見かける“理想の暮らし”を真似しようとしたけれど、
なぜかそれが「やらなきゃいけないこと」になってしまっていたりします。
本来は心を整えるためだったはずなのに、
「できない自分」を責めるきっかけになってしまったり。
でもそれって、ていねいに生きたい気持ちがあるからこそのこと。
今回はそんな“理想と現実のギャップ”を、共感とユーモアでふりかえる
「丁寧な暮らしあるある10選」をお届けします。
疲れる原因になりがち!丁寧な暮らしあるある10選

1. 朝イチの白湯を忘れると、なんとなく罪悪感
“丁寧な暮らし”を意識しはじめると、朝のルーティンに白湯が加わる方も多いのではないでしょうか。
SNSや雑誌で紹介されている「ていねいな朝習慣」の定番。
体を内側から温めて、代謝を促し、内臓をやさしく目覚めさせる——
そんな効果があると聞くと、やらない選択肢がなくなってしまう気がします。
けれど、ある朝うっかり白湯を飲み忘れただけで、なんとなく調子が悪いような、
“ていねいさを取りこぼした”ような、地味な後悔に襲われることも。
本来は「自分の体に向き合う時間」をつくるための白湯だったはずが、
いつの間にか「飲まなきゃいけないもの」になっている。
こんなはずじゃなかったのに、と自分でも笑ってしまう朝もあるのです。
大切なのは、白湯そのものよりも、
その日一日を少しやさしく始めようと思えた“気持ち”のほう。
飲めない日があっても、バタバタでスタートしてしまっても、
また明日、気が向いたらお湯を沸かせばいい。
丁寧さって、そのくらいの余白があってちょうどいいのかもしれません。
2. 一汁三菜にこだわりすぎて、ぐったり
理想の食卓といえば、「一汁三菜」。
季節の食材を使って、汁物に主菜、副菜を2つ……
そう意気込んで買い出しから始めたら、思った以上に時間も体力も消費して、
いざご飯を食べる頃には、作り手のほうがもうクタクタ。
しかも、しっかり手間をかけた副菜に限って残されるなんて日もあるから切ないものです。
張り切った分だけ空回りして、「がんばったのに報われない」と感じる瞬間も。
“理想の食卓”がプレッシャーになってしまうこともあるのです。
そんなときは思い出してみたい、「おにぎりと味噌汁だけでも、心が満たされる」こと。
体にしみる味と、ほっとできる空気。
それがちゃんとあれば、十分にていねいな夕食です。
暮らしの中で「食」はとても大切だけれど、
“整った見た目”より“整った気持ち”を優先する日があってもいい。
理想に縛られない、現実に寄り添う選択こそ、
今の自分にとってのていねいな食卓かもしれません。
3. 常備菜を作りすぎて、冷蔵庫がぎゅうぎゅうに
平日の夕方をラクにしたくて、休日に張り切って常備菜を仕込む。
数日持つおかずを作り置きしておけば、
帰宅してすぐに食卓が整うし、食生活の乱れも防げる——
そう思って作りはじめたはずなのに、いつの間にか
冷蔵庫の中がタッパーで埋め尽くされてしまう。
保存容器を開ければ、なんだか乾いていたり、すでに味が落ちていたり。
「これ、いつ作ったんだっけ……?」と記憶をたどる日も珍しくありません。
“丁寧な暮らし”のつもりが、
「作ること」が目的になってしまい、
結局手をつけずに処分するという本末転倒な結果に。
それでも、あのとき「がんばろう」と思えた自分を責める必要はありません。
暮らしは実験の連続。
向いていない方法に気づけたことも、前に進む一歩です。
“ちょうどいい丁寧さ”は、量でも手間でもなく、
「無理なく続けられること」の中にこそある。
保存ではなく、“その場でさっと”が気持ちよく感じるなら、
そちらを大切にしてみるのもひとつの答えです。
4. とっておきの器、結局しまいっぱなし
お気に入りの器を使うことも、ていねいな暮らしの楽しみのひとつ。
季節に合わせて選んだ土もの、旅先で出会った小皿、作家さんの一点もの。
「これで食べるあの献立を…」と想像しながら手に入れたのに、
いざ使うとなると「今日は疲れてるし、また今度」と見送ってしまう。
「割ったらどうしよう」「洗うの面倒かも」「ちゃんとした料理じゃないし」
そんな理由で、気づけば棚の奥で眠ったまま。
そして次の器が届き、また“特別”として飾られる。——器コレクターあるあるです。
でも本来、器は“使われること”が喜び。
特別な日じゃなくても、たとえばレトルトカレーでも、
その器で食べたらちょっと気分が上がる、
それだけで日常に豊かさが生まれます。
しまいこまれた器をそっと取り出して、
“使う”ことで初めて息を吹き返すものもある。
完璧な献立より、「今日はこの器を使いたかったから」
そんな理由で選ぶ食卓も、ちゃんとていねいです。
5. タオルやふきんの“くたびれ”に異様に敏感になる
暮らしを整えたいと思いはじめると、なぜか布ものが気になってきます。
キッチンのふきん、洗面所のタオル、来客用のクロス。
ほんの少しでもヨレが出ていたり、色が褪せていたりすると、
「生活が乱れてる証拠かも…」なんて気になってしまう。
新品の白いふきんに替えたときの気持ちよさは、たしかに格別。
でもそれが習慣になると、「見た目を保つためのサイクル」に追われて、
“清潔感”が“強迫観念”に近づいてくることもあります。
思いきって処分するのも大切だけれど、
ふわふわではないけど手に馴染むくたびれた布には、
「よくがんばったね」と言いたくなるような安心感もあるはず。
きれいに整えることだけがていねいではなくて、
「使い切った」と思える布を洗って干すしぐさにも、
やさしい暮らしのにおいが漂います。
人にもタオルにも、寿命のゆるやかなグラデーションがあっていいのです。
6. ノート・日記・手帳が増殖しがち
ていねいな暮らしを目指す人が陥りやすいのが、「書くこと沼」。
日記、ToDoリスト、感謝ノート、暮らしの記録帳…
「書いて整える」系のノートがどんどん増えていきます。
使いはじめは楽しいし、気持ちも引き締まるのですが、
気づけばページは数行で止まり、2冊目、3冊目…とスライド。
「このノートは“ていねいな日だけ”の記録にしよう」なんて決めてしまうと、
逆に「今日は記録する価値ないかも…」と自分を否定してしまうことも。
本来は、自分を見つめ直すための道具のはずが、
書けなかった罪悪感だけが残ってしまう——そんな日が続くと、
ノートの存在自体が重くなってしまいます。
でも、何も書かなくてもていねいな日はあるし、
書き残さなくてもちゃんと過ごせた日は消えないもの。
「今日は白紙だったけど、静かでいい日だった」
そう思えたなら、それが一番の記録かもしれません。
7.SNSに「ていねい投稿」してる自分に気づく
焼きたてのパンをカッティングボードに乗せて、斜めから撮影。
湯気が立つお味噌汁のアップ、食卓全体を引きで——
暮らしの一コマをスマホで切り取って、ついSNSに投稿したくなることもあります。
もちろん、自分の暮らしを大切に記録するのは素敵なこと。
けれど、気づけば「映える瞬間を探すこと」自体が日課になっていて、
本当に味わいたかった時間が、カメラ越しになってしまうことも。
いいねの数やコメントの反応が気になりすぎて、
“整える”が“評価される”ために変わってしまうと、
本当のていねいさがどこかに置き去りになってしまうかもしれません。
暮らしを記録することは悪くない。
でも、誰に見せなくても「わたしが嬉しかった瞬間」は、
それだけで充分ていねいな時間だったのだと思います。
たまにはスマホを手放して、写真を撮らない朝ごはんもいいかもしれません。
8. 季節のしつらえにハマりすぎて、部屋が祭壇化
ていねいな暮らしに季節感は欠かせません。
桜の頃には桜モチーフ、夏は涼しげなガラス、
秋には木の実や紅葉を飾って、冬には南天と椿を——
と、やっているうちに、リビングの一角が季節の“祭壇”のように。
「気づけば何も置けない棚が完成していた」なんてことも。
さらに「この飾りにはこの花器を…」「干支は毎年揃えたい…」と増えていく小物たち。
整理整頓より、“彩り優先”になっていく現象、わかる方も多いはず。
もちろん、季節を楽しむ心は暮らしの彩りになる大切な感覚。
でも、飾らなきゃ、揃えなきゃ、と自分を追い込んでしまったら本末転倒。
一輪だけの花、ひとつだけの器、それだけでも季節は十分感じられる。
“足す”よりも、“今あるものに目を向ける”ていねいさも大切にしたいですね。
9.「今日は無理だったな…」と一人反省会を開く
部屋は散らかったまま、洗濯物は山積み。
夜ごはんも気づけば冷凍チャーハンだけで済ませていた。
そんな日こそ、自分を責めたくなるものです。
「今日、全然ていねいじゃなかったな」
そう思って布団に入った夜、なぜか心がざわざわして眠れなかったり。
ていねいな暮らしを求めていたはずなのに、
“できなかったことリスト”をつくって自分を追い詰めてしまう——
これも、ていねいな暮らしにまじめな人が陥りやすい罠です。
でも、そんなふうに落ち込むということは、
「本当はちゃんとしたい」という気持ちがある証拠。
だったらもうそれだけで、自分は十分がんばっていると思っていいのかもしれません。
ていねいな暮らしは、常に整っていることではなく、
「整えたいと思う気持ち」を持ち続けることなのかもしれませんね。
10. 結局「まあいっか」で救われる
何をやってもうまくいかない日。
白湯も忘れた、洗濯も放置、冷蔵庫の常備菜はカピカピ。
部屋は乱れて、気持ちまでザラついているような、そんな一日。
でも、そんな日の夜に、ふとお気に入りの湯のみを手に取って
あたたかいお茶を飲んだとき、「まあいっか」とつぶやいてみると、
肩の力がふっと抜けていく瞬間があります。
完璧に整った暮らしではなく、
どこかに余白があるから、また立て直せる。
“今日はうまくいかなかった”と認めることも、
ちゃんと自分を見てあげている証拠です。
「まあいっか」の中にある、許す気持ち。
それこそが、ていねいな暮らしを続けるためのやさしさなのかもしれません。
ていねいさは「完璧」じゃなくて、「ゆるさ」と「揺らぎ」の中にある

ていねいな暮らしに憧れて、いろいろ工夫してみたけれど、
気づけば力が入りすぎて、疲れてしまったり、
できない日があるたびに、自分を責めてしまったり——
そんな経験は、きっと誰にでもあるはずです。
でも、本当に大切なのは「すべてをちゃんとやること」ではなく、
できなかった日も、ちょっと笑いながら許してあげられる余白だったりします。
理想に向かって頑張ろうとする気持ちも、
「まあ今日は無理だった」とふと力を抜く瞬間も、
どちらもきっと、ていねいな暮らしの一部です。
毎日じゃなくてもいい。
誰かに見せなくてもいい。
ちょっとだけ気持ちが整ったと感じられる、その感覚こそが
“あなたにとってのていねいさ”なのだと思います。
どうか今日も、ありのままの暮らしに、そっとやさしい目を向けてあげてください。
この記事を書いた人
柴山甲一
酒器の案内人
バーテンダーとして様々な酒や人生と出会い、人生の数だけ酒の楽しみ方があることを知る。「酒の楽しみ方=人生」と捉える目線から、一人じっくり酒を楽しめる器や、誰かとの語らいを楽しむ器など、人に寄り添い人に合わせた“人生を変える酒器選び”をナビゲートする。飲食店などへも、料理人自身が選び切れない器の中から「酒と会話と料理と」を引き立てる器を提供し、その強いこだわりには信頼と定評を得ている。
この記事を書いた人
柴山典子
器人(うつわびと)
静岡の陶器屋の家に生まれ、幼少の頃より家庭用・飲食店用など様々な器に触れながら育つ、器屋生まれ器屋育ちつまり“生粋の器人”。“日本”が誇るもの文化やそれが反映された道具には深い敬意をもち、感動と関心で心の拍手が止まらない。未知に対して興味津々、驚きと笑いを一緒に分かち合えたら嬉しく人との繋がりに日々感謝。「和モノ」のみならずインテリア物は大好物。
この記事でふれた「ゆるやかな丁寧さ」に寄り添う器たち
——使うほどに心がほどける、“日常の相棒”をご紹介します。
椿ペア碗皿
5,940円(税込)
織部角皿
2,750円(税込)
石割小鉢
3,520円(税込)